「関係の空気」「場の空気」

「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)
 1対1での「関係の空気」は、お互いの「空気」を共有できなくてうまくコミュニケーションが取れなくなってて、大勢の人間の集まる「場の空気」では、全体を支配する「空気」によって個人が窒息しかけてる、というお話。で、その原因は、「話し方」にあるんじゃないか…という考察でした。
 「KY」という言葉が最近あちこちで使われてて、これは「空気読めない」の略だそうだけど、わたしは、この略語も言葉もすごくすごくこわいのでした。この本では、略語を使うことが、その「場」の空気を共有するための道具であるとしていて、それはほんとにその通りだなと実感します。略語や仲間内の言葉とか使うのが好きじゃないから、「関係の空気」にも「場の空気」にもうまくとけ込めた気がしないのかな、と思ったり。
 もう一つ、「話し方」の考察で思い出したことが一つ。私が今絶賛はまり中のアニメで、なんかこの人変だなあとぼんやり感じたキャラがいたのですが、ふじょし系の感想サイトさんを見たら一発でその原因が書かれてあったので感心しました。そのキャラは、同じ相手に向かって「タメ語」と「敬語」をちゃんぽんで話していたんですね。普通、キャラだてするためには、「話し方」は一定させるものだと思うので、「なんか変」な感じがしたのでした。いろんな感想サイトを回ってみると、いわゆる考察系のサイトさんでは、「キャラの感情移入がしにくい」「情報が少なくて何考えてるのかわからない」という感想が目立つのですけれど、ふじょし系のサイトさんでは、それこそキャラ同士の話し方から、二人称の使い方、声の調子、目線等々、あらゆる情報を細かくチェックしてキャラの心情を考察して、その関係性に「萌えて」いる。そうやって、考察系のサイトさんではほとんど言及されない切り口から作品を読み取っているのを見ると、よしながふみ三浦しをんが対談で話してたように、ふじょし視点の考察って、表に出て堂々と主張しても通るくらいの説得力が時にはあるんじゃないのかなあ、と思ったのでした。いや「場の空気」というのがあるので、表に出づらいというのもわかるんですけど、その「敬語」に注目(いくつか見たふじょし系のサイトさんの全てが「敬語」を指摘していた)したのには、本当にすごいと思ったので。
 そういえば、わたしもブログ書くときに「だ、である」調と「です、ます」調をチャンポンで使ってます。言及する作品の内容や、それを誰に伝えたいかによって、無意識で変えているみたいです。もう少し自覚的にやった方がいいな、と思いました。