085 はるかな国の兄弟

はるかな国の兄弟 (岩波少年文庫 85)

はるかな国の兄弟 (岩波少年文庫 85)

 鬱展開のリンドグレーンは苦手で、敬遠していた一冊。おむらよしえさんの感想で、再挑戦してみました。
 不安で不吉で、暗いイメージはそのままなのですが『ミオよ、わたしのミオ』のように厭な感じの暗さではありません。気の弱い弟と弟思いの兄の、冒険と言うには残酷すぎる試練が、美しく厳しい自然を背景に、印象深く描かれています。怖くてたまらないけれど、ずっと忘れることができないような。
 なんで「ミオ」はダメで「兄弟」はいいのか、考えたのですが、やっぱり主人公の周りの人が、どれだけ自我を持ってるかだと思います。「ミオ」は、本当に主人公とって都合がいいだけの人物造形で、キャラクターとして独立してないんですよね。「兄弟」のヨナタンも、ソフィア、マティアス、ヒューベルトも、カールに親切にはしてくれるけど、都合がいいだけの人たちじゃない。特に、カールがある人物を誤解する場面、「ミオ」なら、ミオの「間違い」とはされなかったでしょう。
 で、平たく言って、「ミオ」の「はるかな国」も、「兄弟」の「ナンギヤラ」も、主人公の想像の世界なのですが、そこに住む人々が、なぜこんなにも違うのかというと、作品の成立時期ということを別にして、ミオとカールの生い立ちに関係があると思うのです。ミオは、孤児院から養父母に引き取られて、その後もずっと愛されることを知りませんでした。人を信じることのできないミオには、自分を無償で、無条件で全肯定してくれる存在しか、自分を愛する者として想像できなかったのだと思います。その点、優しい兄と、母親に愛情を注がれて育ったカールには、他者を他者として認識する強さが備わっていたのでしょう。
 「主人公の想像の世界」と書きましたが、読了後思い出したのが、コニー・ウィリス『航路』です。死にゆく脳が、生存を模索して見せる最後のイメージ世界、臨死体験としての「ナンギヤラ」。「兄弟」のラスト、カールがナンギリマの光を見るシーンは、『航路』のラストで、実はすでに死んでいる人物が、救いの光を見るシーンを彷彿とさせました。これは、病弱だったカールが、死の床で見た最後の夢であり、そして、ナンギリマを見た瞬間、カールの脳は完全な死を迎えたのではないでしょうか。
 これは「死」の物語です。でも絶望の物語ではない。深い絆で結ばれた兄弟の愛情と信頼の物語でした。